JSF氏の奇妙な翻訳 Pugh教授の論文の翻訳と解釈をめぐって


(8月10日追記)
 当エントリの最初の題名は「JSF氏の奇妙な翻訳」でしたが、JSF氏からTBを頂き、翻訳はsennju氏によるものであるとの指摘を受けました。これは私の全くの勘違いであり、まことに申し訳ありませんでした。お詫びを申し上げるとともに、当エントリの題名と本文を訂正いたします。
 なお、頂いたTBへのお返事と、下記エントリの続きにつきましては、また後日にさせて頂きたいと思います。





JSF氏が、リデル=ハートの格言について言及があるPugh教授の論文の一節を、引用・翻訳されています。
リデル=ハートの格言について言及があるPugh教授の論文について、sennju氏が引用・翻訳され、それに基づいてJSF氏が解釈を述べられています。


http://obiekt.seesaa.net/article/123786563.html
リデル=ハートの格言「平和主義者の好戦性」について


論文はこちら
http://obiekt.up.seesaa.net/file/Pugh2C1980.pdf


 私自身は、軍事史もイギリス史も専門ではないので、このような論文について議論することは憚られるのですが、JSFsennju氏の訳文があまりにも不可解なものだったので、以下に疑問点を述べさせて頂きます。1文ごとに番号を振り、順番に検討しております。

 (なお、JSFsennju氏は引用部分を「Pugh氏の論旨」とされていますが、この引用部分は論文の結論部分でもなければ結論的内容が記述されている部分というわけでもないので、なぜ「論旨」とされているのかよくわかりません。)

第1の文

1) In political terms, pacifists extended their vision beyond the issue of individual consience to the prospect of converting whole societies.

 この文につきましては、termsの訳には疑問を感じますが、文の大意については同意いたします。なお、原文の’consience’は、‘conscience‘の誤植と思われます。


第2の文

2) No longer content merely to protect the dissenter and justify the dissenting conscience, the pacifist set out to win converts through missionary activity such as the lobbying of L.N.U. branches.

 この文を、JSFsennju氏は次のように訳しておられます。

「もはや反対者を単に擁護したり、見解の異なる良心を正当化することにも我慢がならず、平和主義者はLNU支部のロビー運動のような布教活動を通して、転向者に勝利することを企てている。」(引用者注:LNUに関する説明は省略しています)

  そして、この訳に依拠して次のように述べておられます。
  そして、この訳に依拠してJSF氏は次のように述べておられます。

反戦平和運動は半ば宗教と化し、布教活動を行う者は異なる意見に耳を貸そうとせず、反対意見を持つ者に対して勝利を得ることを企てている」


 さて、このような翻訳と解釈は正確なものと言えるでしょうか?

 まず、「もはや反対者を単に擁護したり、見解の異なる良心を正当化することにも我慢がならず」の部分について考えてみましょう。このような訳になることは、文法上ありえないのではないでしょうか?この訳では、「我慢がならない」の主語は「平和主義者」ですが、「擁護したり」と「正当化したり」の主語は別の誰かということになっています。しかし、S be content to 〜は「Sが〜することに満足する」という意味ですから、「満足する」の主語と「〜する」の主語が別々であるということはありえないでしょう。
 そして、‘protect the dissenter’を「反対者を擁護」すると訳すのは正しいでしょうか?‘dissenter’という単語は、この論文ではこの箇所で初めて登場しています。‘dissenter’には「異議を唱える者」「反対する者」といった意味がありますが、主語が「平和主義者」なのですから、平和主義者が擁護する‘dissenter’とは何かを考えなければなりません。この論文の、引用箇所よりも前の部分を読んでみますと、平和主義と‘Conscientious objection’=「良心的兵役拒否」との関わりについて述べられていますが、私が思うに、‘dissenter’とは「(良心的兵役拒否者のような戦争に対して)反対する人」という意味なのではないでしょうか。
 また、‘justify the dissenting conscience’を「見解の異なる良心を正当化する」と訳すのは正しいでしょうか?これも、主語が「平和主義者」であることを考えると、意味が通らないでしょう。私は、直訳すれば「(戦争にたいして)反対する良心を正当化する」だと思うのですが、これでは意味が分かりにくいので、例えば「戦争に反対することを良心的なものとして正当化する」と意訳してみたいと思います。


 では次に、「平和主義者はLNU支部のロビー運動のような布教活動を通して、転向者に勝利することを企てている。」の部分について考えてみます。まず、‘win converts ‘を「転向者に勝利する」と翻訳し、「反対意見を持つ者に対して勝利を得る」と解釈することは、正しいのでしょうか?私は、この’win‘は「勝利する」の意味ではなく、「勝ち取る」「獲得する」の意味ではないか、と思うのですが。
 そして、‘converts’についてですが、これを「転向者」と訳すことは良いとしても、一体何から何への「転向者」なのでしょう。しかも、JSF氏は「反対意見を持つ者に対して勝利を得る」と解釈されていますが、これでは‘dissenter’と‘converts’が同じになってしまい、全く意味不明なことになってしまいます。私は、これは「(平和主義への)転向者」ということではないか、と考えます。この論文の、引用箇所の前の段落には‘a convert’の単語が登場し、以前戦争に参加していた人物が後に平和主義に転向した例が挙げられていますので。


 なお、‘missionary activityを’「布教活動」と訳しておられますが、‘missionary’は宗教的な意味を持つ場合にしか使われないというわけではありませんので、「宣伝活動」と訳した方が分かりやすいと思います。


 以上から、私の試訳は以下のようになります。


「平和主義者は、単に戦争に反対する人を擁護したり戦争に反対することを良心的なものとして正当化したりするだけでは最早満足しなくなり、LNU支部のロビー運動のような宣伝活動を通して、平和主義への転向者を獲得するようになった。」



 失礼ながら、JSF氏は御自分の意図に合わせようと無理やりな翻訳をされたため、全く頓珍漢な解釈をすることになったのではないかと考えざるをえません。
 失礼ながら、JSF氏は問題のある翻訳に依拠されたために、全く頓珍漢な解釈をすることになったと考えざるをえません。


第3の文

3)It was this process of politicization which annoyed not only Beaverbrook but less hostile observers as well.


  この文を、JSFsennju氏は次のように訳しておられます。

「これはビーバーブルック卿だけでなく、もっと友好的な観察者をも悩ませた政治化のプロセスであった」


「これは」という主語を用いて訳しておられますが、意訳だとしても、なぜこのような訳し方をされるのでしょう。これは、どう見ても強調構文だと思います。また、‘less hostile’を「もっと友好的な」と訳されるのはいかがなものでしょうか。 


 私の試訳は以下のようになります。


「ビーバーブルック卿だけでなく、彼ほど平和主義に対して敵対的ではない観察者をも悩ませたのは、この政治化のプロセスであった、」


第4の文

4)Liddell Hart commented, for example:' contact with many of my pacifist friends, with whose outlook I am naturally in sympathy, too often has the effect of making me almost despair of the elimination of war, because in their very pacifism the element of pugnacity is so perceptible'.


 リデル=ハートの言葉の翻訳につきましては、特に疑問を感じるところはありませんでした。
 ただ、このリデル=ハートの言葉を、平和主義一般に対する批判の言葉としてとらえるとしたら、誤解を生む危険性があると思います。この論文は、その題名(「イギリスにおける平和主義と政治 1931−1935年」)が示すとおり、限られた時代の「平和主義」について論じられたものであり、しかもこの時代に平和主義がそれ以前に比べて大きく変化したことが述べられております。そして、変化した「平和主義」に「悩ませられたless hostile observers」の一例として、リデル=ハートの言葉が引用されているのです。
 このような論じ方がされている論文から、前後の文脈を無視してリデル=ハートの言葉を引用し、平和主義一般に対する批判の言葉にするとしたら、これはいささか問題があると感じざるをえません。
 そしてさらに言えば、この論文ではイギリスにおける平和主義の変化の背景として、日本が引き起こした満州事変が挙げられておりますので、日本人がこの論文の内容に依拠して平和主義を批判するということに対しては、ますますなんだかなあ、と思ってしまうのです。

JSF氏の奇妙な論理 その1


上記エントリに関連して、JSF氏による3つのブログ記事が、どうにもよく理解できない論理展開になっているので、少し考えてみました。


最初に、以下の記事について。

http://obiekt.seesaa.net/article/123640810.html


 JSF氏はまず、中井多賀宏氏の事件について、「自己を全否定する行為を……憲法9条を唱える無防備論者がナイフを使って殺人未遂。」と述べられた後、リデル=ハートの言葉を引用され、「平和主義者の好戦性」の例として井上ひさし氏が「家庭内暴力を奮う(ママ)事」を挙げられて、「好戦的な平和主義者という人種は、そこいら中にいるものと思った方が良いでしょうね。これまで私も山ほど見てきました」と結論付けておられます。

 さて、私はこの記事を読んで、結論に至る過程にかなり大きな論理の飛躍があるのではないか、と感じました。JSF氏は、中井氏の「殺人未遂」が「(憲法9条を唱える無防備論者としての)自己を全否定する行為」であると述べておられます。これにつきましては、「殺人未遂」という個人の行為と「憲法9条を唱える無防備論」という国家の方針をめぐる論議とを同列に論じているという点では疑問を感じますが、「無防備論」が含む暴力否定の考え方と「殺人未遂」という暴力行為との矛盾という観点からならば、理解できなくはありません。また、続いて井上ひさし氏の「家庭内暴力」を同様の事例として挙げられていることも、(ウィキペディアの記述を信用するとして)「家庭内暴力」も暴力行為の1つですから、これもわからなくはありません。
 ところが、JSF氏は2つの「憲法9条を唱える無防備論者」による暴力行為の事例を挙げられた後、なぜか「好戦的な平和主義者という人種は、そこいら中にいるものと思った方が良いでしょうね」と述べて、批判の矛先を平和主義者一般へと拡大してくるのです。そして、「(好戦的な平和主義者を)これまで私も山ほど見てきました」とおっしゃるものの、その具体例は全く挙げておられません。
ここで疑問を感じるのですが、この「好戦的な平和主義者」とは、具体的にどのような「平和主義者」を指しておられるのでしょうか?「殺人未遂」や「家庭内暴力」を例示された後という文脈から考えれば、同様な暴力を振るう平和主義者ということになるはずなのですが、これは常識的に考えて、ありえないでしょう。「殺人未遂」や(ウィキペディアからの引用ですが)「肋骨と左の鎖骨にひびが入り、鼓膜は破れ、全身打撲。顔はぶよぶよのゴムまりのよう。耳と鼻から血が吹き出て…」というようなすさまじい「家庭内暴力」を振るうような「好戦的な平和主義者」を、JSF氏が「山ほど見て」こられ、そのような「好戦的な平和主義者」が「そこいら中にいる」ということは、かなり考えにくい話ですから。
 では、この「好戦的」という言葉をもっと広い意味で、例えば「けんかっ早い」「攻撃的な議論をする」「口汚く相手を罵る」といった意味で使っておられるのでしょうか?もしもそうなら、「好戦的な平和主義者」が「そこいら中にいる」という点では理解できなくはありません。しかしその一方で、このような「好戦的な平和主義者」は、「自己を全否定する行為」をしているとまでは言えないでしょう。いずれにしても、JSF氏の議論は筋が通っていないように思われます。