トンデモ理論としてのID理論

 前回のエントリ「トンデモ理論」に対し、野良猫さんという方から、「何かを「トンデモ」と評価するならば、なぜそういう評価に至ったのかを説明できなければいけません。」とのコメントを頂きました。
既に多くのブログで産経新聞の記事(http://www.sankei.co.jp/databox/kyoiku/etc/050926etc.html)に対する批判は行われておりましたので、前回のエントリでは私自身の意見はほとんど述べませんでしたが、今回は私自身の考えを述べていきたいと思います。
 とは言え、私自身は生物学については全くの門外漢なので、進化論を学問的に突っ込んで議論することはできません。専門家による知見としては、以下のブログ・HPが評判になっているようで、私のような素人にもわかりやすいものでした。
http://blackshadow.seesaa.net/article/7460434.html
http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/
 今回は、産経新聞の記事の中で、論理の筋道が通っていないと思われる部分を中心に、批判してみたいと思います。


 ――推進しているのはキリスト教右派とされています。旧約聖書に基づく創造論の「神」を「知的存在」に言い換えているだけでは?

 もしそんなものであるなら、これを支持する科学者は一人もいないでしょう。米国の記者もよく「何で早く神と言わないのだ」と質問しますが、ID理論家はあくまで科学的実証から出発するわけで、彼らは、自然的要因からは生じえない「デザイン」の事実が厳密に実証できるのだから、従ってデザインの主体、デザイナーの存在が推論できるのだと言っているのです。神から出発するのではないのです。キリスト教右派だとか宗教勢力の画策などというのは、そういうふうに見たがる人の言うことです。

 

「ID理論家は、〜自然的要因からは生じえない「デザイン」の事実が厳密に実証できるのだから、従ってデザインの主体、デザイナーの存在が推論できるのだと言っているのです。」とのことですが、この後のインタビューを読んでいっても、「自然的要因からは生じえない「デザイン」の事実が厳密に実証」された例が提示されることはありません。これは、全く不思議なことと思われます。自説の根拠を示そうとしないのですから。
そして、この後は進化論において未だ解明されていない点があることを非難するばかりなのですが、言うまでもなく、このような非難はID理論の正しさを証明することには全く繋がりません。これは前回のエントリでも述べたように、「南京事件はなかった」「ホロコーストはなかった」と主張する歴史修正主義者のパターンと似ているように思います。
なお、渡辺氏が後段で紹介しているID理論のHPを見てみると、そこには渡辺氏による多くの論文が掲載されており、「「インテリジェント・デザイン」の科学的実証」(http://www.dcsociety.org/id/ningen_genri/005.html)などで「実証」を示そうとしておられるのですが、これらはおよそ「実証」とは言い難いものだと思われました。渡辺氏やID論者が主張していることは、つまるところ、生物には偶然に生まれたとは考えられないほどに複雑な器官が見られる、だからそれをデザインした者=デザイナーが存在したはずだ、ということだと思いますが、これは「未知」と「不可知」とを混同した発想でしょう。生物の進化の過程について十分に解明されていない部分がある(=未知の部分がある)からといって、それを超自然的なデザイナーの存在の証拠であるとする(=不可知の存在を持ち出す)ことは、全くの非論理です。こんな論理展開が科学において許されるのであれば、わからないことがある時には「それは超自然的存在によるものだ」と言うだけで、説明できたことになってしまいます。
 また、渡辺氏は「神から出発するのではないのです」と述べていますが、HPに掲載された渡辺氏による論文を読む限り、とてもそうは思えません。渡辺氏が神について述べた文章を以下に転載します。

http://www.dcsociety.org/id/ningen_genri/004.html
「デザイン理論」は科学と神学をつなぐ

科学で見えてきた神
 Designという英語は、設計、計画、意図、目的といった概念すべてを含んでいる。日本語で「デザイン」と言えば、図案、設計というだけの意味であるから、これとは違う。だからIntelligent Design という言葉が、神の手、神の計画、目的論的世界観といったものを暗示する(決して明示はしない)ものとして、自然主義(すべてを物理力によって説明しようとする)の対立概念として、旗印のように浮上してきたのは肯けるのである。日本語にはこれに当てはまる言葉がないということが、日本の学界からこういう思考法が生まれてこない一因であろうかと、考えざるをえない。
 日本人のほとんどはキリスト教的な家庭に育ってはいない。けれども何のためにこの宇宙が存在し自分が存在するのか、といった疑問が、子供時代に頭の中を一度もよぎったことがないという人は少ないであろう。しかし日本人の場合、神の創造という考えが風土的に存在しない上に、自然主義的な思考法だけがこの社会では唯一制度的に許されていることを感じ取るようになると、せっかく頭に浮かんだそういう疑問も、まるで恥かしい子供じみた疑問であったかのように、意識の上から消え失せるのである。少なくとも私自身の体験ではそうである。
 しかし私の子供時代と現在とでは、少なからず事情が変わってきている。ちょうど通信と交通の手段が飛躍的に発達したことによって地球が小さくなったように、宇宙そのものも小さくなった。我々の宇宙はたった百三十七億年(この数字はごく最近NASAの観測に基づいて推定された)前に誕生したばかりで、今も膨張しつづけているというビッグバン仮説は、私の子供時代には存在しなかった。時間の始まりとか空間の限界という昔なかった考え方にも次第に慣れてきた。ちょうど青い宝石のような地球を両の手のひらにのせていつくしむ図柄があるように、宇宙そのものもいわばdweller-kindly(住む者にやさしく配慮された)というべき、身近なものとして次第に実感されるようになってきたのである。地球上の生物界が、弱肉強食の厳しいだけの世界だという考え方が次第に薄れていったように、宇宙が冷たい物理法則に支配されるだけの、人間などに無関心な非情な存在だという考え方も、今は次第に薄れつつある。
 このことはいったい何を意味するか。ビッグバン以前に時間はなかったのか。なかったとは言えない。とすればそれは我々の時間ではない。我々の次元を超えた次元の時間と考えるよりほかはない。時間空間的に限定された我々の宇宙が、我々の次元を超えたものによっていつくしむように抱かれている、というイメージは感傷的で空想的なものだろうか。そうではない、現実的な像である。ここから帰結されるものは何か。神である。現実的存在としての我々と我々の宇宙を創った神である。かりに一神教に好意をもたぬ者であろうとも、この神を認めないわけにはいかない。西欧世界においてほぼ過去百五十年間、知識人の間でコケにされてきた神、わが国でもそれにならって明治以来、その名さえ口にすることを(古代ユダヤ社会とは全く逆の理由で)憚ってきた神、その神がいま過去数十年の科学的観測の帰結として、有無を言わさぬ形でおのれを開示してきたのである。

有限だった宇宙
 インテリジェント・デザイン運動が今この時期に勢いを得てきたことの背後には、以上のような宇宙像の変化があったであろう。すなわち宇宙が有限でしかも意外に若く小さいものだったという事実、何ものかこれを、外から包み支えているものを想定しなければならないこと――こういうところからくる宇宙像が、科学そのものの前提を見直すこの運動を促進したであろう


 ID理論からビッグバンへといきなり話が飛ぶなど論理の筋道が追いにくく、また意味不明の部分も多いのですが、とりあえず、渡辺氏は「神から出発するのではないのです」と述べているものの、「神が〜おのれを開示してきた」として、ID理論が神と結びついたものであることを明言している、とは言えそうです。
 それにしても、「西欧世界においてほぼ過去百五十年間、知識人の間でコケにされてきた神」とは、なんだか頭を抱えたくなります。19世紀中頃以降の西欧世界の知識人が、全て無神論者だったとでもおっしゃりたいのでしょうか?渡辺氏は英米文学がご専門なのですから、西欧の思想史について無知であるなどとは到底考えられないのですが。
 また、「わが国でもそれにならって明治以来、その名さえ口にすることを(古代ユダヤ社会とは全く逆の理由で)憚ってきた神」というのも、全く不可解です。明治以降の日本人には宗教心がなかったとでもおっしゃりたいのでしょうか?まあ、「その名さえ口にすることを憚ってきた」現人神は、敗戦までは存在していましたが、「その名さえ口にすることを憚ってきた」のは、「古代ユダヤ社会」と似た理由であったと思うのですが。



――しかし進化論は「公認の学説」になっています

 進化論には疑いようのない化石による証拠とか実験での証明は何もないのです。「公認の学説」とは異説を唱える学者は認めないということでしょう。それだけでも鉄槌(てっつい)を下す意味があるではないですか。


「「公認の学説」とは異説を唱える学者は認めないということでしょう。」とは、これまた「トンデモ説」によく見られる被害妄想だと思います。例えば、アインシュタイン相対性理論はそれまでの「公認の学説」であったニュートン力学に基づく物理学の常識をひっくり返すものでしたが、その理論的正しさはあまりにも明らかだったため、短時日のうちに受け入れられていったと聞いています。それまで常識と思われていた「公認の学説」であっても、それに対する異説が科学理論として正しいことが認められれば、それまでの「公認の学説」は異説に取って代わられて、その異説が新しい「公認の学説」になる、というのが科学の世界のあり方というものでしょう。ID理論が「公認の学説」である進化論に取って代われないのは、ただ単にID理論に科学的な説得力がないために過ぎないと思われます。


 ――では、生命体はどうやって生まれたと考えますか?

 それは分からないとID派の学者たちは答えています。ダーウィニストは、分からないことでも分かっているように言うのが科学的だと考えています。「分からない」「神秘だ」と正直に言う方が知的に誠実ではないでしょうか。

 
 「「分からない」「神秘だ」と正直に言う方が知的に誠実ではないでしょうか。」という科白は、そのままID理論にはね返ってくるものでしょう。「分からない」ことを「分からない」と言わず、「デザイナー」なる超自然を持ち出してそれを説明しようとするのがID理論なのですから。


――日本の学校でも教えるべきですか?

 思考訓練として教えるべきです。でないと日本人の頭は硬直したままです。それに「生命は無生物から発生した」「人間の祖先はサルである」という唯物論的教育で「生命の根源に対する畏敬(いけい)の念」(昭和四十一年の中教審答申「期待される人間像」の文言)がはぐくまれるわけがありません。進化論偏向教育は完全に道徳教育の足を引っ張るものです。


 「「生命は無生物から発生した」「人間の祖先はサルである」という唯物論的教育をすると、「生命の根源に対する畏敬(いけい)の念」がはぐくまれ」ない?
これは、例えて言うならば、「音は空気の振動であるということを教えるべきではない。音が空気の振動であることを知ってしまったら、美しい音楽を聴いても「これは空気の振動に過ぎない」と考えて、音楽に感動することがなくなってしまうから。」と主張するようなものでしょう。 「音が空気の振動である」という物理的な現象としての側面と、「音楽を聴いて感動する」という精神の働きとしての側面は、互いに矛盾しあうものではありません。それぞれ別の次元の事柄であるからです。同様に、「生命が無生物から発生した」という物理的な現象と、「生命に対して畏敬の念」を抱くという精神の働きは、別の次元の事柄です。渡辺氏の主張は、次元の違う事柄を混同するものだと思います。


――その認識を日本で広めるために、どんな取り組みを行っているのですか?

 ID運動に呼応する形で、今私は同志とともに、啓蒙(けいもう)的な学会活動を始めています。われわれの文化の唯物論的体質が学問の世界から発しているのだから、学問の世界から矯正していこうという運動です。この学会とIDについての詳細はホームページ(http://www.dcsociety.org)をご覧ください。


 この学会のHPを見ると、渡辺氏がどういう宗教団体と関係を持っている人物であるかがよくわかります。また、渡辺氏の論文がいくつも掲載されており、神秘家の思考というものがどのような経路をたどるものであるのかがよく理解でき、そういう意味では大変に面白いです。
 ついでに、渡辺氏のトンデモぶりを示す一例を、以下に引用します。 

http://www.dcsociety.org/id/ningen_genri/007.html
科学か神話か ―恥さらしな進化論教育―

更にいえば、今問題となっている「ジェンダー・フリー」などという歪んだフェミニズム思想も、元を尋ねれば、男女の別などというものは進化の過程で気まぐれに生じたオス・メスに過ぎない、といった浅はかな進化論を背景にしていることは確かだから、これもそうではないのだということを、この運動の扇動者たちに納得させることができるならば、そういう思想は消えるはずだということ、これも容易に理解されるであろう。


 「ジェンダー・フリー」が「男女の別などというものは進化の過程で気まぐれに生じたオス・メスに過ぎない、といった浅はかな進化論を背景にしていることは確か」とは……絶句するしかありません。渡辺氏は英米文学がご専門のはずですが、genderを辞書で引くことさえしなかったのでしょうか?


進化論偏向は道徳教育にマイナス 日本の識者も主張

 「人間の祖先はサルだという教育は、生物の授業の仮説ならともかく歴史教育や道徳教育にはマイナスだ」「進化論はマルクス主義と同じ唯物論であり、人間の尊厳を重視した教育を行うべきだ」という議論は日本でも多くの識者から主張されてきた。


 「人間の祖先はサルだという教育は、生物の授業の仮説ならともかく歴史教育や道徳教育にはマイナスだ」というのは、全く意味不明の文章です。「生物の授業の仮説ならともかく歴史教育や道徳教育にはマイナスだ」というのは、生物の授業で進化論を教えることはかまわないが、歴史や道徳では教えるべきでない、ということなのでしょうか?しかし、歴史の授業で進化論を教える場合、19世紀ヨーロッパの文化について教える際に進化論について触れることになりますが、進化論が当時の社会に与えた衝撃については説明するものの、「人間の祖先はサルだという教育」をするわけではありません。また、道徳の授業において進化論が教えられるということは、普通ないでしょう。この文章を書いた産経新聞の記者は、一体何が言いたかったのでしょうか?
「進化論はマルクス主義と同じ唯物論であり、人間の尊厳を重視した教育を行うべきだ」というのも、また意味不明の文章です。大体、生物学理論である進化論と社会科学理論であるマルクス主義理論とを同列に並べるという発想が、そもそも無茶です。



 マルクス主義の影響を最も強く受けているとされる日本書籍の中学歴史教科書は平成十三年度使用版まで、見開き二ページを使ってダーウィンの進化論と旧約聖書の創世記、戦前の歴史教科書の日本神話を対比させて聖書や神話を否定的に受け止めるよう誘導していた。

 
 「ダーウィンの進化論と旧約聖書の創世記、戦前の歴史教科書の日本神話を対比」させることが、なぜ「聖書や神話を否定的に受け止めるよう誘導」することになるのでしょうか?これは単に、人類の科学的認識の進歩を示すためのもの、と受け取るのが普通だと思うのですが。そもそも、現代人として一般的な科学的常識を身に付けていれば、聖書の「創世記」や日本神話の「国生み」を、そのまま歴史的事実と考えるような人間はいないでしょう。



 このような教育に対し、日本神話の再評価を訴えている作家・日本画家の出雲井晶さんは「道徳の上では人間は人間、獣は獣。人間を獣の次元に落とす進化論偏向教育が子供たちを野蛮にしている。誰が日本人を作ったのかというロマンを教えるべきだ」と話す。


 「人間を獣の次元に落とす進化論偏向教育が子供たちを野蛮にしている。」とは、何の実証もともなわない妄想と言うほかありません。進化論を学んだために「野蛮にな」った子供たちって、本当にいるのでしょうか?出雲氏に尋ねてみたいものです。
「誰が日本人を作ったのかというロマン」というのも、すごい意見です。出雲氏は「日本神話の再評価を訴えている」そうですから、これはつまり「国生み神話」を教えよ、ということなのでしょうが、もしも「国生み神話」を歴史的事実として教えるべきだと考えておられるのだとしたら、論外だと言うしかないでしょう。


 中川八洋筑波大教授は著書『正統の哲学 異端の思想』でダーウィンを批判。創造論、進化論の双方が非科学的だとしても「文明の政治社会の人間の祖先として『神の創造した人間』という非科学的な神話は人間をより高貴なものへと発展させる自覚と責任をわれわれに与えるが、『サルの子孫』という非科学的な神話(神学)は、人間の人間としての自己否定を促しその退行や動物化を正当化する」と論じている。


 科学理論である進化論と、本質的に非科学・反科学である創造論とを、同列に「双方が非科学的だとしても」と論じているところで、中川氏はすでにトンデモであると言わざるを得ないでしょう。そして、「『サルの子孫』という非科学的な神話(神学)は、人間の人間としての自己否定を促しその退行や動物化を正当化する」という発想には、到底ついていけません。何故、人間は進化してきたとする進化論が、「その退行や動物化を正当化する」ことになるのでしょう?全く正反対のことを言っているとしか思えませんが。