ロマ書 第13章 続き

 4月5日のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/jimusiosaka/20060405/p1)に対して、finalventさんが追記を書いておられます(http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060323)。失礼ながら、忙しさにかまけて返答しないまま随分と時間が経過してしまいましたので、新エントリを立てさせて頂きます。

 まず、私の「また、「ローマ皇帝など皇帝への忠誠というのとバッテンするというのは歴史的にもない」とのことですが、だとすると皇帝礼拝を拒否して迫害されたキリスト教徒はどうなるのでしょうか?」に対して、次のように述べておられます。

「忠誠」を「皇帝礼拝」と何故読み替えるのが(か?引用者注)理解不能

 ローマ帝国における皇帝礼拝は、帝政初期の元首政(プリンキパトゥス)の時期にはかなり緩やかで、さほど強制的なものでない場合が多かったようですが、帝政後期の専制君主政(ドミナトゥス)の時期になると完全に強制的なものとなりました。そして、皇帝礼拝を拒否するキリスト教徒は、皇帝への忠誠心に欠けた者達として激しい迫害を受けるようになり、特にドミナトゥスを始めたディオクレティアヌス帝による迫害は最大のものとなりました。このような歴史から考えれば、ローマ帝国において皇帝礼拝を拒否して迫害されたキリスト教徒は、「ローマ皇帝など皇帝への忠誠というのとバッテンする」例としてとらえることができるのではないでしょうか?



 そして、私の「そのような歴史的経緯を持ったものを、日の丸・君が代の強制に関する文脈で持ち出されるというのは、歴史に対してあまりにも無頓着ではないでしょうか。」という部分に対して、次のように述べておられます。

 おっしゃられる「歴史」というのは、それはそれで一つの「宗教的・道徳的規範」ではないのか。そういう規範よりパウロの言葉=規範が優先されることはキリスト教徒には普通はないと思う。キリスト教徒は辛い世であればそれはそういうものとしてして耐えている。

 まず、「そういう規範よりパウロの言葉=規範が優先されることはキリスト教徒には普通はないと思う。」という文は、「そういう規範「が」パウロの言葉=規範「より」優先されることはキリスト教徒には普通はないと思う。」の書き間違いだと思われますので(そうでなければ、finalventさんの文意とは正反対になってしまいますので)、勝手ながら、読み替えさせて頂きます。それから、「キリスト教徒は辛い世であればそれはそういうものとしてして耐えている。」は「キリスト教徒は辛い世であればそれはそういうものとして耐えている。」ですね。
 さて、「おっしゃられる「歴史」というのは、それはそれで一つの「宗教的・道徳的規範」ではないのか。」とおっしゃっておられますが、いささか意味がわかりにくいところです。ここで私が申し上げた「歴史」とは、「軍国主義時代に神社参拝が強制されるようになった時、それを拒否するキリスト教徒に対して強制を正当化するために」「ロマ書第13章」が持ち出された、ということであり、これ自体は「歴史的事実」であって「宗教的・道徳的規範」ではありません。
 次に、「そういう規範「が」パウロの言葉=規範「より」優先されることはキリスト教徒には普通はないと思う。」という文についてですが、私が「歴史に対してあまりにも無頓着ではないでしょうか」と申し上げたのは、「キリスト教徒」に対してではなくfinalventさんに対してです。ですから、「パウロの言葉」である「ロマ書第13章」を「キリスト教徒」がどのように考えているかは、この場合関係ないのではないでしょうか。


 また、「パウロの言葉=規範」についてですが、「ロマ書第13章」がいかなる規範を求めたものであるかについては、キリスト教徒の間でも、様々な解釈があるのではないでしょうか?例えば、立教大学のチャプレン香山洋人氏による以下の説教のように。

http://www.rikkyo.ne.jp/~kayama/mokusou/2005apr27.htm
「人はみな上に立つ権威に従うべきです」、これは先輩の言うことを聞け、目上に従えということだと言ってもいいが、問題は次だ。「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」。これが目下の者に対して語られた言葉なのか、それとも、目上の者に対して言っているのか、この違いが大きいことはお分かりだろう。権威あるものが目下のものに対してこう語ったとすれば、実に傲慢不遜でまさに権威主義だ。しかし目上の者に対する言葉として語られたとすればどうだろう。あなたたち権威者の権威は神によって与えられたはずだ。その権威はすべて神に由来するはずだ、あなたたちは権威の由来にふさわしく生きているのかという問いかけになる。パウロの趣旨がもしその通りであれば、これは権威者に対する批判、裁きの言葉となるはずだ。

 もしあなたたちの命令に権威があるとすればその権威にはとてつもない重みと責任があると知るべきだ。権威は神の定めによるものであり、あなたたちが行使している権威は神聖なもの、神に由来する力だ。それを自覚した者たちによって正しく行使されれば、権威というものは神の意思を表しうるすばらしいものとなるに違いない。しかしそのことに無自覚なものたちは神の権威を冒涜することになる。権威者はその責任を自覚せよと。

 続いて、権威者には従えという指示があり、6節には税金だって本来意味があるのだという内容まで出てくるし、正しい権威、責任ある立場の人々に一目置くのは当然だと続く。「権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです」。これは、私に言わせれば完全ないやみでありあてつけだ。パウロが権威ある人々に向けて投げつけた裁きの言葉だ。権威あるものが自ら誇ろうとして語るのではなく、権威、権力に服従させられる立場の者たちがこのように語るのだ。権威者は神に仕えるものでそれに励むべきだ。しかしあなたたち権威者は本当にそうなのか?とパウロは問いかけている。あなたたちは本当に神に仕えているのか、そのために励んでいるのか、考えて欲しい、とパウロは問いかけているのではないか。

 そして最後に、「キリスト教徒は辛い世であればそれはそういうものとして耐えている。」の部分について。「耐えてい」ただけで軍国主義に対して抵抗しなかったという歴史に対する反省は、戦後のキリスト教徒の間でかなり共有されたものとなっているのではないでしょうか。だからこそ、例えば以下のようなカトリック中央協議会からの声明文が出されたりもするのだろうと思います。

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/051018.htm
「首相の靖国参拝に抗議する声明」より引用 
 かつて軍国主義政権の圧力のもとで、当時のカトリック教会の指導者は靖国神社をはじめとする神社参拝を心ならずも『儀礼』 として容認してしまいました。このことは過去の出来事として葬り去ることはできません。なぜなら、今まさに同じ危機が目前に迫っているからです。すなわち、憲法改正論議のなかで、政教分離の原則を緩和し、靖国神社参拝を『儀礼』として容認しようという動きが出てきているからです。日本の政教分離憲法第20条3項)は、天皇を中心とする国家体制が宗教を利用して戦争にまい進したという歴史の反省から生まれた原則なのです。だからこそ、日本国民であるわたしたちにとって、この政教分離の原則を守り続けることが、同じ轍をふまない覚悟を明らかにすることになるのです。

 勿論同じキリスト教徒であっても、曽野綾子氏のような考え方の持ち主もいらっしゃいますので、全てのキリスト教徒がこのような反省を共有しているとも言えないでしょう。ただいずれにしても、「キリスト教徒は辛い世であればそれはそういうものとして耐えている。」というようなおっしゃり方をされることは、「耐えている」だけだった過去を反省しているキリスト教徒の存在を無視してしまうことになるだろうと思います。