林道義氏の小倉千加子氏に対する批判は正当か?

 5月の下旬に、khideakiさんという方の「数学屋のメガネ」というブログにおいて、フェミニズムをめぐる論争がありました。論争自体は既に終わっていますが、いくつか引っかかった部分があり、ずっと気になっていました。その一つが以下の部分です。

http://d.hatena.ne.jp/khideaki/20060521/1148216629
「事実としての『フェミニズムの害毒』」 より引用


 林さんがこの本を書いた頃は、専業主婦願望が高まった頃だったらしい。それを、林さんは、家庭的な愛情を無視して育てられた世代が抱いた反動的な願望だと解釈している。林さんの教え子の世代は、ちょうどその母親たちが、外で働くことこそが女の開放という考えに染まっていた世代だったらしい。だから、そのために家庭では母親不在の状態が多かったらしい。その反動として、家における母親の重要性や、母親を求める気持ちが子どもの世代に強くなるだろうことは容易に想像出来る。
 この専業主婦願望の増加に対して、林さんは次のように書いている。

フェミニストたちは、その現象の中にマイナスの意味しか読みとることが出来ない。その典型が、小倉千加子の評論(『読売新聞』1998年4月8日付夕刊)である。彼女は女子大生の専業主婦志向とは、「自分に正直に生きる」ことを捨てて、親の期待通りの「幸せな指導」をするように「妥協」した産物だと断じている。そのような見方の背景にあるのは、女子学生は卒業したら働きたいと思うのが当然であり、「幸せな」結婚をしたいなどというのは親の願望に引きずられた「不正直な」心だという見方である。何と単純で無神経な見方であろうか。」

 この小倉千加子氏はフェミニストでは無いという批判をしたい人がいるかもしれないが、問題は、「単純で無神経な見方」が、フェミニズムの逸脱として生まれてこないかということだ。問題は逸脱ということなのである。これを誤謬として、逸脱をちゃんと意識出来る人間なら、その誤謬を犯すことから逃れられる。しかし、誤謬をちゃんと認識出来ない人間は、いつかは誤謬にとらわれるだろう。将来の誤謬から逃れるために、逸脱の可能性をちゃんと認識するということが、誤謬の研究の目的なのである。
 小倉氏が考えるような女子大生もいただろう。しかし、それがすべてであるかどうかは分からない。林氏が解釈するような女子大生がいてもおかしくない。双方が、自分が考える女子学生しかいないと主張していたら、双方が間違っていると言うことになるだろうが、フェミニズムの前提を教条主義的に信奉してしまったら、フェミニズムの方が誤謬に陥る可能性が高いと僕は思う。だからこそ、フェミニズムの陣営は誤謬に敏感でなければならないのだ。

 

 林氏によって提示された小倉千加子氏の評論の内容は、小倉氏の著作をいくつか読んだことのある私にとっては、非常に違和感を抱かせるものでした。どうも、林氏の引用・要約に問題があるのではなかろうか、と思わずにはいられなかったのです。
 そのため、小倉氏のオリジナルの文章にあたってみたいと思っておりましたところ、つい先日ようやく讀賣新聞の縮刷版にて読むことができました。以下に、全文を転載させて頂きます。なお、林氏による引用・要約が正確なものであるかを確かめるという目的上、元の評論をそのまま転載させて頂いておりますが、この転載については小倉氏からの許諾は得ておりませんので、小倉氏から抗議を受けた場合には直ちに削除致します。

1998年(平成10年)4月8日(水曜日)読売新聞夕刊 文化欄より転載


『花嫁姿は「いい子」のあかし〜女子大生の新・専業主婦志向〜』


 大学の就職講座で、女性落語家の注目株である桂あやめさんを迎えて講義をしてもらった時の話である。あやめさんは、職場としての落語界を、世間の思惑とは逆で女性差別のない実力主義の世界だと断言し、これが自分の仕事だというものを見つけて生きる充実感を熱っぽく語ってくれた。ところが、はじめは目を輝かせていた学生たちは、講義後は妙に落ち込んでいくのである。


「我が道を行くという生き方がすごいと思いました。私にはそんな情熱ないです。」
「学校をやめたり、弟子入りすることを決めた時の意志の強さは私にはないものなので憧れます」
「私は余り自分というものがなく、人と違ったことをするのがとても怖いんです。だから高校中退など、自分に正直に生きてこられたのはとても羨ましい」
「自分を生かせる、自分が自分でいられるようなものを持っている人というのは、憧れです。私は一生かかっても見つけられないでしょう」


 現在おおかたの女子大生にとって理想の生き方は、「自分に正直に生きる」ことにある。が、理想はしょせん理想であって、現実の人生設計は「こんなのでエエんかなと思いつつも、大学を卒業したらどっかのそれなりの企業に入って、二、三年したら幸せな結婚をして主婦になる」というものである。
 ここで言う「幸せな結婚」とは、「自分に正直な生き方」とはもちろん対極にあり、周囲の人々(特に親)から見て満足のいく結婚を指す。親が反対する結婚とは、娘の階層が下降することになる結婚―――男の学歴が女より低いとか、男の収入が女の実家のそれに遠く及ばないとか――のことである。
 みすみす苦労しにいくような結婚を、いまどきの親は許さない。将来の豊かな生活を手に入れさせてやりたいために、娘を大学に入れているのだから。女子大生たちは、自分の親が自分にかけている期待をよーく知っている。


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 就職難の時代に、やっと内定をとってきた名前を聞いたときの母親の「そんな会社聞いたことないわ」の一言に、女子大生たちが深く傷ついた話はよく耳にする。今の時代、それなりの企業に入ることすら多くの女子大生には難しい話である。
 だからこそ、彼女たちが結婚で親の期待を裏切りたくないという気持ちは強まっていく。自分に正直に生きるといいながら、自分の真の欲望に目覚めて親の前でいい子であり続けた自分を捨てなければならないのは恐ろしい。我が道を行くのが孤立の道を行くことだとしたら、自分に不正直に生きていく方がまだましだ。そうして、自分らしさを維持することと親からの愛を失わないことの奇妙な妥協の産物が作りだされる。

                
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「キャリア・ウーマンになるのは憧れだけれど、男と伍して働くなんてよほどの知力と体力と精神力に恵まれた人の話。自分のレベルは、偏差値を通してよく知っているから、キャリア・ウーマンはパス」
「それにあれは結婚を捨てなきゃいけない。かと言って、ランクを落とした仕事と家庭とを両立するために頑張るなんてしんどすぎる。保育所で子どもが一人残されて自分を待っているなんて、可哀想すぎる。自分の子どもは愛情いっぱい注いで、自分の手で完璧な人間に育てたい。だから子どもは一人で十分だけど、一人っ子は可哀想だから二人にする」
「子どもの手が離れたら、自分を生かせる仕事をしてみたい。社会と繋がっていれば、いつまでも若さを保てるから。そんな生活が可能になるためには、やっぱり夫の収入が高くなくてはダメ。だから結婚相手に求めるのは、なんといっても経済力。貧乏な人はペケ」


 これが首都圏を中心に広まりつつある女子大生たちの新・専業主婦志向である。親や友人たちからOKサインをもらえるような結婚。労働義務からの解放。最低限の努力で最大限の評価が与えられる仕事への憧れ。
 若い男性は、今なお専業主婦を望んでいるので、妻の内実がなんであれ、家事と育児を妻がしてくれる限りは、文句は言わない。ここに、恋愛濃度の低い、安全な新しい結婚が成立する。

                
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 現在の女子大生たちはもの心ついた時から偏差値によって序列化され、それ以前の世代には想像もできない新種の優越感と劣等感を植えつけられて育ってきた。が、偏差値競争の勝者になって得るものは、親からの称賛以外には何もない。幸福な勝者モデルも見つけられない。となれば、ようやく大学に入学した時点で、競争とは縁を切りたいと思うのも当然だろう。
 就職するのにも競争があり、就職してからも競争があるとなれば、彼女たちが家庭に回帰していくのも不思議はない。


 さて、小倉氏が「女子学生は卒業したら働きたいと思うのが当然であり、「幸せな」結婚をしたいなどというのは親の願望に引きずられた「不正直な」心だという見方」を持っている、という林氏の見方は、小倉氏の文意を正確に読み取ったものと言えるでしょうか?

 khideakiさんは、林氏の著作に依拠してフェミニズム批判を展開されましたが、林氏が小倉氏の文章を全く正確に伝えていない(それが林氏の故意によるものなのか、それとも読解力の欠如によるものなのかはわかりませんが)という可能性について、お考えになるべきだったと思います。