ジャンヌ・ダルク

 ここ数日話題になっている「伊勢崎のジャンヌ・ダルク」伊藤純子氏の記事について。
 http://blog.livedoor.jp/junks1/archives/50367170.htmlが発端
 続いて、http://blog.livedoor.jp/junks1/archives/50375364.html
     http://blog.livedoor.jp/junks1/archives/50377467.html
     http://blog.livedoor.jp/junks1/archives/50378037.html
 これらの記事に対する批判はあちこちでなされているようですが、伊藤氏が「モデル募集サイト」を「男女混合名簿」に結び付ける強引さについてはhttp://d.hatena.ne.jp/kemu-ri/20060116が、そして「モデル募集サイト」を通じて被害にあった女性の「破廉恥な挙動」を伊藤氏が非難することの問題点についてはhttp://d.hatena.ne.jp/makinamikonbu/20060116/1137410310が、大変参考になりました。
 ところで、「ジャンヌ・ダルク」の名は、愛国主義ナショナリズムの象徴として扱われることが多く、伊藤氏が「伊勢崎のジャンヌ・ダルク」を自称しておられることにもそのような傾向を感じるのですが、そのためか、受験生だったころに世界史の受験雑誌に載っていた、ジャンヌ・ダルクに関して触れたコラムを思い出してしまいました。それは、大体において以下のような内容だったと記憶しています(かなりおぼろげですが)。

 ジャンヌ・ダルクの処刑裁判の記録によれば、人定尋問においてジャンヌは次のように答えている。
「名はジャネット。フランスに来てからはジャンヌと呼ばれています。姓については知りません。」
 この記録を読む人々の多くは、「ジャンヌは何と勇敢な少女だろう。姓は、ダルクという立派な姓があるではないか。裁判の最初から、ジャンヌはイギリスの裁判官を挑発しているのだ。」と解釈し、これを愛国的な態度として称えることに夢中になる。しかし、「真正の歴史家」は、そのような解釈を採らない。
 ジャンヌが生きていた15世紀のヨーロッパ社会においては、父方の姓と母方の姓のどちらを名乗るのか、確立されたルールはなかった。そして、ジャンヌが育ったドンレミ村は、ロレーヌ地方のごく標準的な規模の村であり、彼女はほとんどその村から出ることもなく育ったと考えられる。彼女が育った環境において、彼女が姓で呼ばれる機会はほとんどなかったのであり、「ジャコモ(ジャンヌの父)んとこのジャネット」とでも呼ばれていたのだろう。
 そのようなジャンヌが宗教裁判で姓を問われた時、父方の姓を答えるべきか、それとも母方の姓を答えるべきか、質問している側もどちらで答えさせるべきか自信がなかったであろうし、ましてやジャンヌにはなおのことわからなかったのであろう。

 大体、こんな感じの内容だったと思います。
 ジャンヌが「フランス救国の英雄」として愛国主義の象徴となるのは19世紀以降のことであり、そのように見なす人は現代でも数多いようですが、それが15世紀に生きていたジャンヌの実像とは食い違ったものになりがちであることは、あまり知られてはいないようです。そして、現代において「ジャンヌ・ダルク」を自称する人達が、そのような食い違いを認識しているのかどうか、大変に疑わしいことのように思われます。

(22日追記)
 ジャンヌ・ダルクが近代以降の人間のような「国民意識」「フランス人意識」を持っておらず、ジャンヌの戦いをフランスという国家を守るためのものだと考えることが大きな誤解であることは、歴史学においては言うまでもないことです。ジャンヌが「国民意識」を持たなかったことは、例えば上に挙げた人定尋問で、「フランス」という言葉を「フランス王の支配下にある地域」という程度の意味にしか使っていないことからもうかがえるでしょう。
 しかし、伊藤純子氏の22日の新エントリは、氏が歴史学を学ばれた方である(イスラム史学を専攻されたそうです)とはどうしても思えないものでした。以下に一部を引用させて頂きます。

http://blog.livedoor.jp/junks1/archives/2006-01.html#20060122
ジャンヌダルクと国防思想」

 正直申し上げて、当初、ジャンヌダルクというあだなはあまり好みませんでした。
ジャンヌダルクと聞いてまず思い浮かべるのが「火あぶりの刑」。それから、宗教裁判。私にとってジャンヌダルクは「革新的イメージ」も強かったものですから、抵抗を感じましたね。
 しかし、ジャンヌダルクの功績はすばらしかった−彼女の生まれ育った村がイギリス軍に占領されそうになると知り、彼女は立ち上がったのです。しかし悲劇が彼女を襲います。信じていた国王に裏切られたり、文字が読めない欠点を衝かれ、宗教裁判にかけれてしまうのです。
 生涯、ひたむきに故郷を守ろうとした純粋さが表面にでることはありませんでしたが、ご承知のとおり、500年が経過した後々の後世で彼女の勇敢さ、純粋さが高く評価され、フランスの英雄とされるほどになりました。

 私が彼女の生き方に賛同できる点は「愛国心」。以降、私はジャンヌダルクを「愛国心のシンボル」として解釈するようになりました。

 「国防思想」や「愛国心」という言葉を、現代の我々が使っている意味でジャンヌ・ダルクにあてはめることがおかしいことは、上述の通りです。
 また、「彼女の生まれ育った村がイギリス軍に占領されそうになると知り、彼女は立ち上がった」というのは初耳です。もっとも、氏は「ひたむきに故郷を守ろうとした純粋さが表面にでることはありませんでした」とも書いておられるので、史料的裏付けがあることなのかどうかはわかりませんが。ついでに重箱の隅をつつくような話ですが、「500年が経過した後々の後世で彼女の勇敢さ、純粋さが高く評価され、フランスの英雄とされるほどになりました。」は、ジャンヌがフランス救国の英雄として広く認識されるようになったのは19世紀中頃ですから、「500年」ではなく「400年」でしょう(さらについでに、「後々の後世」とおっしゃるのもちょっと……)。