ルワンダ虐殺と関東大震災における朝鮮人虐殺

 『ホテル・ルワンダ』のパンフレットに町山智浩氏が掲載した文章が、様々な議論を呼んでいます。
 なお、町山氏の文章については、こちらで全文が掲載されています(http://d.hatena.ne.jp/kemu-ri/20060304/1141410831)。
 さて、それらの議論の中の、二つの虐殺における共通した普遍性と、それぞれの虐殺の特殊性とをどのように理解すべきか、という問題については、以下の記事において非常に明快に論じられていると思います。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060228#p1
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060305#p1

 また、こちらの記事も同様に明快です。

http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20060305203754/index.html

 結局のところ、ルワンダにおける大虐殺と関東大震災に乗じた朝鮮人虐殺とが「同じ」であるか「異なる」かは、自らがどのような利害関心でもってこの二つの出来事に向き合うかによって決まるのである。両者が「同じ」であるとするのはどのような利害関心によるのか、両者が「異なる」とするのはどのような利害関心によるのか。それを自ら語る用意のない者がこの件に関して語ることは、まるで無価値であると私は判断する。


 私としては、この問題に関する様々な議論を読んでいて、昔読んだ『アメリカ・インディアン悲史』(藤永茂著、朝日選書、1974年)の末尾部分を思い出さずにはいられませんでした。

 インディアン問題はインディアンたちの問題ではない。我々の問題である。そして「インディアン」はいたる所にいる。素朴な親愛と畏敬をこめてクマを殺すことを知っていたアイヌたちだけが我々にとってのインディアンではない。


(ここで、『苦界浄土』から、水俣の漁師がかつての生活の満ち足りた様子を語る言葉を引用)


 こう、石牟礼道子さんに語った水俣の漁師の爺さまを、我々が殺したとき、我々はまぎれもなく「インディアン」を殺したのである。

 インディアン問題はインディアンをどう救うかという問題ではない。インディアン問題はわれわれの問題である。われわれをどう救うかという問題である。

 
そういえば、以前町山氏が言及されていた『帰ってきたウルトラマン』の「怪獣使いと少年」のエピソードの中に、次のような場面がありました。

宇宙人のレッテルを貼られて迫害されている天涯孤独の亮少年は、自分を助けてくれたメイツ星人の「おじさん」のために、「おじさん」が地下に埋めた円盤を掘り出そうと穴を掘っています。そして、「おじさん」と共にメイツ星に行くつもりだと言うのです。
 MATの郷秀樹隊員(ウルトラマン)は、亮少年にこう訊きます。
 「地球を捨てるのかい?」
 亮少年はこう答えます。
 「地球は今に人間が住めなくなるよ。その前に、地球にさよならするのさ。」
 
社会から見捨てられたかのような亮少年。しかし、本当に見捨てられようとしているのは、迫害された少年と、彼を迫害している社会と、果たしてどちらなのでしょうか。