「genocideの原型」

finalventさんの補足記事からの引用です。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060318/1142654353
そっちの世界でご満悦な人々
 ⇒http://d.hatena.ne.jp/jimusiosaka/20060318#c1142868165
# jimusiosaka 『apesnotmonkeysさん。
>というかそのエントリ、無茶苦茶ですね。さすが山本七平シンパだけのことはある。
 同感です。このエントリが『日本人とユダヤ人』に書かれたgenocideに関する非歴史学的な例え話を援用した記事であろうことは想像できましたが、オリジナルに輪をかけて突飛で支離滅裂な内容に思われました。』
# gachapinfan 『・・・そしてそういった無茶苦茶なエントリに対してまじめに批判すると、《空気読めない瑣末主義者》のレッテルを貼られることにwww』
# jimusiosaka 『やはり、「そういった無茶苦茶なエントリに対してまじめに批判する」人に対して、「《空気読めない瑣末主義者》のレッテルを貼」ることが目的のエントリだったのでしょうかねえ。あまりにもあからさまに「トンデモ」な内容なので、かえってその意図を勘繰ってしまいそうです

 「そっちの世界でご満悦な人々」と言われてしまいました。私としても、「突飛で支離滅裂」「あからさまに「トンデモ」な内容」とまで申し上げた以上、具体的に批判を述べるべきだと思いましたので、随分と遅くなってしまいましたが、以下にfinalventさんのエントリを引用しつつ疑問に感じた点を列挙していくことにします。




http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060319/1142735496
「genocideっていうのは鳥インフルエンザ対策みたいなもの」

 10年くらい前だったか、台湾で口蹄疫病が流行して豚を随分始末したし、私も税関で中華ハムとか取られちゃったし……そんなことはどうでもよい。
 で、鳥インフルエンザもそうだけど、あれって、一羽でもウイルスっていうか黴菌っていうかに感染したら同じ施設のを全部殺してしまうのですよ。そうしないと、さらにひどくなるからここの施設の同類は全部殺せ、というわけです。汚染の概念に近いかもしれない。
 で、これって、家畜とか放牧する民族にとっては、ごくごく当たり前のサバイバルの知恵なんです。
 で、これが人間に適用されるのがgenocide。というか、genocideの原型。現代の国際法上のgenocideの基礎ということではないので誤解無きよう。
 ほいで、この原型的なgenocideだけど、思想とか血とかが、ウイルス・黴菌のようにみなされ、それに同舎というか同類は全部殺せというわけです。
 ある意味憎悪とかじゃないんですよ。そんな情緒的なもんではない。ポイントとしては計画性。この点については現代定義のgenociedeも引き継いでいる。

 finalventさんによれば、「一羽でもウイルスっていうか黴菌っていうかに感染したら同じ施設のを全部殺してしまう」ことは「家畜とか放牧する民族にとっては、ごくごく当たり前のサバイバルの知恵」であり、「これが人間に適用されるのがgenocide。というか、genocideの原型」ということだそうです。そして、「原型的なgenocide」とは、「思想とか血とかが、ウイルス・黴菌のようにみなされ、それに同舎というか同類は全部殺せという」ことであり、その「ポイントとしては計画性」が挙げられ、「情緒的なもんではない」のだそうです。
 さて、genocideという言葉はナチスによるユダヤ人虐殺に対する表現として生まれた造語ですが、finalventさんのおっしゃる「genocideの原型」とは、どのような歴史的背景を持って行われたものだったのでしょうか?ここで非常にもどかしく感じることは、遊牧民のサバイバルの知恵を人間に適用した「genocideの原型」なるものについて、その歴史上の実例をfinalventさんが全く挙げておられない、ということです。もしも実例が挙げられているのなら、それを検討することによって、finalventさんのおっしゃる「genocideの原型」なるものの妥当性を論じることもできるのですが。
 それにしても、「一羽でもウイルスっていうか黴菌っていうかに感染したら同じ施設のを全部殺してしまう」ことは「家畜とか放牧する民族にとっては、ごくごく当たり前のサバイバルの知恵」とのことですが、農耕民でも農作物が伝染病などに感染した場合、田畑の中の伝染病に感染した部分やその恐れがあると思われる部分を焼き払う(=「同じ施設のを全部殺す」)ということはあっただろうと思うのですが、finalventさんはこれを「農耕民にとっては、ごくごく当たり前のサバイバルの知恵」とはお考えにならないのでしょうか?



 で、この原型的なgenenocideだが、家畜とかあまりしない農耕民族にはなじまない発想ですね。ただ、農耕には家畜がつきものなのですっぱりは切れないでしょうけど。(ちなみに、遊牧民にとって富が増えるというのは家畜が殖えるということで、家畜が殖えるっていうことは、せっせとおせっくすということで、そのあたりは情緒というものがない。で、彼ら自身も部族はおせっくすで増えている。血統は問われる。これに対して、農耕民は作物が増えるように、植物がその気になるようにそそらせるてことでおっせっくす見せたりとかその手の神事とかする。やってることは、薄目で見ているとけっこう同じだけど、農耕民は作物収穫が基盤になって人が増える。)

 「原型的なgenocide」は「農耕民族にはなじまない発想」ということで、遊牧民と農耕民とを対比させて論じるということになるはずの部分ですが……さて、どう解釈すれば良いのやら。
 「遊牧民にとって富が増えるというのは家畜が殖えるということ」という部分はわかりますが、「家畜が殖えるっていうことは、せっせとおせっくすということで、そのあたりは情緒というものがない」でおっしゃっている「情緒」という言葉の意味が、どうにもよくわかりません(「genocideの原型」は「情緒的なもんではない」とおっしゃっていたこととつながるのでしょうか?)。
そしてこれに「で、彼ら自身も部族はおせっくすで増えている。血統は問われる。」と続くのですが、この論理展開はさっぱり理解できません。「彼ら自身も部族はおせっくすで増えている」とのことですが、別に遊牧民だけでなく、人間は全て「おせっくすで増えている」ものでしょう。そしてさらに、「血統は問われる。」という一文が続くのですが、前の文とのつながりが全く意味不明です。まさか、「彼ら自身も部族はおせっくすで増えている。」(だから)「血統は問われる。」ではないでしょう?もしそうなら、全ての人間は「おせっくすで増えている」のだから、全ての人間の間で「血統は問われる。」ことになってしまいます。かといって、「彼ら自身も部族はおせっくすで増えている。」(そして)「血統は問われる。」だとすれば、では遊牧民が血統を重視するのは何故なのか?という疑問が当然わいてくることになりますが、その根拠は示されておりませんから、これは説得力のない文章になってしまいます。
 次に、「これに対して」以降は、遊牧民と対比して農耕民について述べるということになるはずなのですが……どうも、全然対比になっていないようにしか見えないです。「やってることは、薄目で見ているとけっこう同じだけど、農耕民は作物収穫が基盤になって人が増える。」とのことですが、「農耕民は作物収穫が基盤になって人が増える」という言い方をするのなら、「遊牧民は家畜が殖えることが基盤となって人が増える」という言い方もできるはずであり、農耕民も遊牧民も同じであるということになるでしょう。また、「おせっくすで増えている」のは農耕民も遊牧民も同じである、ということは言うまでもありません。



 日本史を見ると、これに類するのは信長かなとも思うけど、そのあたりの史実は今一つわからない。彼は血にこだわっているふうはあまりなさげ。っていうか、むしろ、信長と秀吉の血にこだわったのは家康。でも、家康も古典的。

 「これに類するのは信長かなとも思うけど」というのは、日本で「genocideの原型」を行ったのは信長とも思うけれど、ということですね。そして、「彼は血にこだわっているふうはあまりなさげ。」と続いているのは、信長は虐殺を行ったけれど、特定の血の人間を皆殺しにしようとしたというわけではないようだ、ということだと考えて良いのでしょうか。 
 しかしそうすると、家康が「信長と秀吉の血にこだわった」とは、一体どういうことになるのでしょうか?どうも、ここで「血」の意味するところが変化しているようですが。また、これに「でも、家康も古典的。」と続けておられるということは、「でも」という接続詞から考えると、「血にこだわる」ことは「古典的」ではない、とお考えなのでしょうか?また、「家康も古典的」の「も」ということは、信長も「古典的」であるとお考えなのでしょうか?ここで「古典的」という言葉の意味するところも、よくわかりません。



 むしろ平家物語とか見ていると、貴種を絶やすということに重要性を置いていた古典的時代があるようだ。(たぶん、山背王とか長屋王はそれ以前の皇統の血を絶つ事件だったのでしょう。)

 ここまで「genocideの原型」について述べてこられたのに、何故「貴種を絶やす」という話題に移ってしまうのでしょうか?「貴種を絶やす」ことは、「genocideの原型」の定義には全くあてはまらないように思いますが。
 そして、「平家物語」において、「貴種を絶やすということ」と言えるような事件が描かれていたでしょうか?どうも私には、finalventさんがどのようなことを「貴種を絶やすということ」だとお考えなのか、よくわかりません。
 また、括弧内の文についてですが、まず「山背王」というのは「山背大兄王」のことでしょうか(長屋王の息子に山背王がいますが、この人物は生き延びています)?そして、「山背大兄王」のことだとすれば、彼とその一族が蘇我入鹿によって自害に追い込まれたといわれている事件を「それ以前の皇統の血を絶つ事件」と考えることは、かなり無理があると思います。山背大兄王の父である厩戸皇子(いわゆる聖徳太子)は勿論天皇ではありませんでしたから、祖父の用命天皇の血筋を「それ以前の皇統の血」と捉えることになると思われますが(曽祖父の欽明天皇まで遡った場合、蘇我蝦夷が擁立したとされる舒明天皇の血筋を否定することになるので、これはあり得ませんね)、この事件を蘇我入鹿が用命天皇の血筋を滅ぼした事件とする見方は、非常に珍しいものでしょう。
 そして、「長屋王の変」も、これを「それ以前の皇統の血を絶つ事件」と考えることは、相当無理があるように思います。長屋王は、天武天皇の孫にあたりますが、「長屋王の変」によって天武天皇の血筋の者が皆殺しにされたわけではないのですから。



 でも、その後の日本を見ていると、日本には血統原理はない。家の名がつながればいいだけ。基本的に娘を家に用意して、交換したり、男をゲットするっていうのが日本で、権力っていうのは、その場の空気とゼニでだいたい決まる。っていうか正義と殲滅の発想はなさげ。血は実際には問われないある種の現実主義の国民が日本のように思える。

 この部分も、冒頭部分と同様に、歴史上の実例が全く挙げられておらず、また表現があまりにも大雑把なために、非常に理解しにくいように思われます。まず、「日本には血統原理はない。家の名がつながればいいだけ。」とおっしゃっておられますが、ここで言われている「血統原理」という言葉の意味合いが今ひとつわかりません。血統を重視する考え方、ということで良いのでしょうか?しかし、もしそうだとすれば、「家の名をつなぐ」場合には、血統が重要な要素になるのはごく普通のことだと思うのですが。「娘を家に用意して、交換したり、男をゲットするっていうのが日本」とのことですが、「娘を家に用意」して「男をゲット」する場合、その男がどのような血統の人間であるのかということを重視するのが当たり前でしょう。そして、「権力っていうのは、その場の空気とゼニでだいたい決まる。」という言葉が続くのですが、「その場の空気とゼニでだいたい決まる」という表現は、その意味するところがどうにも不明確に思われます。
 そして更に、「っていうか正義と殲滅の発想はなさげ。」という文が続きますが、「正義と殲滅の発想」というのは、「genocideの原型」のことなのでしょうか?ここまでの文章の流れで、どうしてこういう見方が出てくるのか、全く理解できません。
 最後に、「血は実際には問われないある種の現実主義の国民が日本のように思える。」というのは、「日本の国民は、血統を実際には問題としないという、ある種の現実主義の考え方を持っている。」ということでしょうか?どうも、主語と述語のつながりが変に思われるのですが。


 ここまで「genocideっていうのは鳥インフルエンザ対策みたいなもの」のエントリを読み直してきましたが、やはり「突飛で支離滅裂」に思われるという見方を変えることはできませんでした。