「A級戦犯は国内法的には犯罪者ではない。だからA級戦犯は犯罪者と見做されるべきではない。」という言説から連想する、2つの例え話。

【例え話 その1】
 日本人のAという人物が、フランスでフランス人を殺害し、フランスの法廷で裁かれ、殺人罪で有罪判決を受けたとします。A氏はフランスの刑務所で服役した後に出所し、日本に帰国しました。そして、A氏が次のように述べたとしたらどうでしょうか?
 「私はフランスの法律で裁かれて有罪判決を受けたが、日本の法律で裁かれたのではないから国内法的には犯罪者ではない。だから、私は犯罪者と見做されるべきではない。」
 このようなことがあったとしたら、A氏の主張は正当なものと言えるでしょうか?


【例え話 その2】
 もしも北朝鮮が暴発してミサイルを他国に発射したとしたら、国連平和維持軍またはアメリカを中心とする多国籍軍によって攻撃を受け、北朝鮮政権は倒されることになるでしょう。そして、金正日をはじめとする北朝鮮政府首脳は逮捕され、国際軍事法廷で裁かれることになると思われます。また、北朝鮮の領域はしばらく国連平和維持軍または多国籍軍の管理下に置かれた後に、韓国に吸収されることでしょう。 
 さて、それから数十年が過ぎて、国際軍事法廷で裁かれて懲役刑を科された金正日が、韓国の刑務所で刑期を終えて出所し、次のように述べたとしたらどうでしょうか?
 「私は国際法で裁かれて有罪判決を受けたが、韓国の法律で裁かれたのではないから国内法的には犯罪者ではない。だから、私は犯罪者と見做されるべきではない。」
 このようなことがあったとしたら、金正日の主張は正当なものと言えるでしょうか?

『ゲド戦記』 とりあえずの感想

 一言で言えば、非常に残念な、そして勿体無い映画だったと思います。映画化に際しては『ゲド戦記』シリーズの第3作を中心とし、そこに第4作の内容を加味するという作品の方向性は、個人的には非常に強く共感するものであり、実際それが上手くいったとすれば、とんでもない大傑作になったかもしれないとすら思えるほどです。しかしながら、それを監督第1作目の宮崎吾朗氏に期待することは、やはりあまりにも難しかったと言わざるを得ないでしょう。

宮崎吾朗バッシング?

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/745995.html

1 名前:依頼342@静岡makky ◆IgDbIlkkMo 投稿日:2006/07/26(水) 10:18:39 株 id:OqN7EH080 ?
http://www.ghibli.jp/ged_02/20director/000252.html

昨日、ジブリの試写室で
押井守監督の最新作『立喰師列伝』の試写を観ました。
(中略)
押井さんは、私に対して一方的な親近感をもってくれているらしく、
立喰師列伝』を、ぜひ観てほしいということでした。
私は、押井さんにもうひと花咲かせてほしいと思っています。
だから感想は、一言。
もう一度、同じテーマで、
サービス第一のエンターテインメントに挑戦してほしい、
これだけです。

 上記引用のように、『ゲド戦記』の宮崎吾朗監督の「監督日誌」での発言があちこちでコピペされ、「何様のつもりだ」「態度でかいね」といった批判が相次いでいるようです。なるほど、「押井さんは、私に対して一方的な親近感をもってくれているらしく」や「押井さんにもうひと花咲かせてほしい」といったあたりは、新人監督の言葉としてはいかにも生意気な印象を受けそうです。
 しかし、どうも疑問に思うのですが、批判している人達はリンクされている「監督日誌」の全文を読んでいるのでしょうか?「(中略)」されている部分を、以下に引用します。


その感想を述べる前に、ちょっと昔話をします。

今を去ること20年前、まだ高校生だったころ、
私は押井守監督と出会っています。
場所は、信州にあった祖父の別荘(というより山小屋ですが)。
頃は、夏の盛りだったように記憶しています。
当時、押井さんは三十半ば、まさに紅顔の美(?)青年といったようすで、
真っ白いランニングシャツが印象的でした。

別荘にいるあいだ、押井さんと父は、えんえんと
アニメーションに対する持論をまくし立て合っていました。

その前年だったか、84年に宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』と
押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』が
公開されました。
当時の私は、『うる星やつら2』のほうが好きで、
それが押井さんにも伝わっていることを、その後知りました。

さて、話を戻します。
そのことを覚えてくれているからかどうか、

 省略されていた部分を読むと、「私に対して一方的な親近感をもってくれているらし」いと宮崎吾朗監督が考えたのは、当時の自分は父の作品である『ナウシカ』よりも『うる星やつら2』の方が好きであり、それが押井守監督に伝わっていることを知っていたからだ、ということがわかります。またこの部分を読めば、『立喰師列伝』に対して「押井さんにもうひと花咲かせてほしいと思っています」「もう一度、同じテーマで、サービス第一のエンターテインメントに挑戦してほしい」と宮崎吾朗監督が述べている理由は、自分が好きだった『うる星やつら2』は「サービス第一のエンターテインメント」であり、そのような作品を押井守監督にもう一度作って「もうひと花咲かせてほしい」と望んでいるからだ、ということが窺えるように思います。総じて、新人監督としてよりも、昔からのファンとして押井守監督に感想を述べている、という印象を受けます。

 引用されている部分だけから文章全体の内容を判断するというのは危険な場合があるなあ、と感じる事例の一つでした。

「サヨクの人海戦術ドクトリン」?

この記事は、http://d.hatena.ne.jp/jimusiosaka/20060617/p1の追記の続きになります。


こちら(http://d.hatena.ne.jp/myhoney0079/20060703/p2#c)で、野良猫さんから以下のコメントを頂きました。

http://d.hatena.ne.jp/jimusiosaka/20060617/p1
 ここのコメント欄を読んで、そちらの記事が追記されているのに気づきました。該当コメントでこちらが述べているのは、質問した内容への回答(肯定派を自覚するなら難しいレベルの要求でもない)に答えずに会話している状況に対するものです。
 ですから、ジムシィさんの元記事に対するものではありません。

 また、Apemanさんとジムシィさんに共通するのは、文章が非常に長いうえに主語や説明が欠けているケースが多いことです。不要な引用などは省いていただきたいと以前に述べたのもそういう理由からです。
 また議論をする機会があれば、そのあたりへの配慮をよろしくお願いします。』 (2006/07/05 00:21)

>ですから、ジムシィさんの元記事に対するものではありません。


 勿論、それは承知しております。
野良猫さんは、「サヨクと議論になる場合、大概は1対複数となります。〜」以下の文章で、サヨクとの議論のあり方についてご自分の経験として述べておられ、「こういうやり方を、僕は「サヨク人海戦術ドクトリン」と呼んでいた」ともおっしゃっています。だから、拙ブログだけでなく他のブログにおいても、野良猫さんがサヨクと論争されてきたなかで、「サヨク人海戦術ドクトリン」なるものを見出された実例があったのならお教え頂きたい、と申し上げているのです。




>また、Apemanさんとジムシィさんに共通するのは、文章が非常に長いうえに主語や説明が欠けているケースが多いことです。不要な引用などは省いていただきたいと以前に述べたのもそういう理由からです。


 まず、「文章が非常に長い」というご指摘については、このコメント欄(http://d.hatena.ne.jp/jimusiosaka/comment?date=20060202#c)で述べた言葉を繰り返します。「文の長短は、文の良し悪しとは直接関係はありません。私の書いている文章に、文のねじれや論理の筋道が通っていない部分があるのなら、それを具体的にご指摘下されば良いのです。」
そして、「主語や説明が欠けているケースが多い」というご指摘ついて。
「主語が欠けている」ということについては、文脈によって「私は」という主語を省略することはありますが、主語がわからなくなるような文章を書いた憶えはありませんし、そもそも野良猫さんからそのようなご批判を受けたことはなかったはずです。他人の文章を批判するのなら、具体例を出して批判して頂きたいと思います。
 また、「説明が欠けている」ということについては、「トンデモ理論」の記事(http://d.hatena.ne.jp/jimusiosaka/20050928/p1)で産経新聞の記事に対する批判に説明が欠けているというご批判を頂いたのと、同記事内で渡部氏の歴史に関する書物を「トンデモ本」と評したことについて「具体的な説明もない」というご批判を頂いたことの2例が思い出されますが、この2つをもって「説明が欠けているケースが多い」とおっしゃっておられるのでしょうか?勿論、2例であってもこちらに落ち度があったのは確かですが。
 更に、「不要な引用などは省いていただきたいと以前に述べたのもそういう理由からです。」とのことですが、はて?これまた、そのようなご批判を受けたことがありましたでしょうか?小泉首相靖国参拝問題について野良猫さんと議論になり、野良猫さんのブログのコメント欄に書き込んだことをこちらのブログに転載させて頂いた時、「経過ログを残したいのでしたら特定の場所に残しておいて、ブログ上での引用は必要最低限に留めておいた方がいいかと思います。(http://d.hatena.ne.jp/jimusiosaka/comment?date=20050718#c)」とのご指摘を頂いたことはありましたが、これは文章の長さとは関係のない話ですし。

林道義氏の小倉千加子氏に対する批判は正当か?

 5月の下旬に、khideakiさんという方の「数学屋のメガネ」というブログにおいて、フェミニズムをめぐる論争がありました。論争自体は既に終わっていますが、いくつか引っかかった部分があり、ずっと気になっていました。その一つが以下の部分です。

http://d.hatena.ne.jp/khideaki/20060521/1148216629
「事実としての『フェミニズムの害毒』」 より引用


 林さんがこの本を書いた頃は、専業主婦願望が高まった頃だったらしい。それを、林さんは、家庭的な愛情を無視して育てられた世代が抱いた反動的な願望だと解釈している。林さんの教え子の世代は、ちょうどその母親たちが、外で働くことこそが女の開放という考えに染まっていた世代だったらしい。だから、そのために家庭では母親不在の状態が多かったらしい。その反動として、家における母親の重要性や、母親を求める気持ちが子どもの世代に強くなるだろうことは容易に想像出来る。
 この専業主婦願望の増加に対して、林さんは次のように書いている。

フェミニストたちは、その現象の中にマイナスの意味しか読みとることが出来ない。その典型が、小倉千加子の評論(『読売新聞』1998年4月8日付夕刊)である。彼女は女子大生の専業主婦志向とは、「自分に正直に生きる」ことを捨てて、親の期待通りの「幸せな指導」をするように「妥協」した産物だと断じている。そのような見方の背景にあるのは、女子学生は卒業したら働きたいと思うのが当然であり、「幸せな」結婚をしたいなどというのは親の願望に引きずられた「不正直な」心だという見方である。何と単純で無神経な見方であろうか。」

 この小倉千加子氏はフェミニストでは無いという批判をしたい人がいるかもしれないが、問題は、「単純で無神経な見方」が、フェミニズムの逸脱として生まれてこないかということだ。問題は逸脱ということなのである。これを誤謬として、逸脱をちゃんと意識出来る人間なら、その誤謬を犯すことから逃れられる。しかし、誤謬をちゃんと認識出来ない人間は、いつかは誤謬にとらわれるだろう。将来の誤謬から逃れるために、逸脱の可能性をちゃんと認識するということが、誤謬の研究の目的なのである。
 小倉氏が考えるような女子大生もいただろう。しかし、それがすべてであるかどうかは分からない。林氏が解釈するような女子大生がいてもおかしくない。双方が、自分が考える女子学生しかいないと主張していたら、双方が間違っていると言うことになるだろうが、フェミニズムの前提を教条主義的に信奉してしまったら、フェミニズムの方が誤謬に陥る可能性が高いと僕は思う。だからこそ、フェミニズムの陣営は誤謬に敏感でなければならないのだ。

 

 林氏によって提示された小倉千加子氏の評論の内容は、小倉氏の著作をいくつか読んだことのある私にとっては、非常に違和感を抱かせるものでした。どうも、林氏の引用・要約に問題があるのではなかろうか、と思わずにはいられなかったのです。
 そのため、小倉氏のオリジナルの文章にあたってみたいと思っておりましたところ、つい先日ようやく讀賣新聞の縮刷版にて読むことができました。以下に、全文を転載させて頂きます。なお、林氏による引用・要約が正確なものであるかを確かめるという目的上、元の評論をそのまま転載させて頂いておりますが、この転載については小倉氏からの許諾は得ておりませんので、小倉氏から抗議を受けた場合には直ちに削除致します。

1998年(平成10年)4月8日(水曜日)読売新聞夕刊 文化欄より転載


『花嫁姿は「いい子」のあかし〜女子大生の新・専業主婦志向〜』


 大学の就職講座で、女性落語家の注目株である桂あやめさんを迎えて講義をしてもらった時の話である。あやめさんは、職場としての落語界を、世間の思惑とは逆で女性差別のない実力主義の世界だと断言し、これが自分の仕事だというものを見つけて生きる充実感を熱っぽく語ってくれた。ところが、はじめは目を輝かせていた学生たちは、講義後は妙に落ち込んでいくのである。


「我が道を行くという生き方がすごいと思いました。私にはそんな情熱ないです。」
「学校をやめたり、弟子入りすることを決めた時の意志の強さは私にはないものなので憧れます」
「私は余り自分というものがなく、人と違ったことをするのがとても怖いんです。だから高校中退など、自分に正直に生きてこられたのはとても羨ましい」
「自分を生かせる、自分が自分でいられるようなものを持っている人というのは、憧れです。私は一生かかっても見つけられないでしょう」


 現在おおかたの女子大生にとって理想の生き方は、「自分に正直に生きる」ことにある。が、理想はしょせん理想であって、現実の人生設計は「こんなのでエエんかなと思いつつも、大学を卒業したらどっかのそれなりの企業に入って、二、三年したら幸せな結婚をして主婦になる」というものである。
 ここで言う「幸せな結婚」とは、「自分に正直な生き方」とはもちろん対極にあり、周囲の人々(特に親)から見て満足のいく結婚を指す。親が反対する結婚とは、娘の階層が下降することになる結婚―――男の学歴が女より低いとか、男の収入が女の実家のそれに遠く及ばないとか――のことである。
 みすみす苦労しにいくような結婚を、いまどきの親は許さない。将来の豊かな生活を手に入れさせてやりたいために、娘を大学に入れているのだから。女子大生たちは、自分の親が自分にかけている期待をよーく知っている。


                 ○             ○


 就職難の時代に、やっと内定をとってきた名前を聞いたときの母親の「そんな会社聞いたことないわ」の一言に、女子大生たちが深く傷ついた話はよく耳にする。今の時代、それなりの企業に入ることすら多くの女子大生には難しい話である。
 だからこそ、彼女たちが結婚で親の期待を裏切りたくないという気持ちは強まっていく。自分に正直に生きるといいながら、自分の真の欲望に目覚めて親の前でいい子であり続けた自分を捨てなければならないのは恐ろしい。我が道を行くのが孤立の道を行くことだとしたら、自分に不正直に生きていく方がまだましだ。そうして、自分らしさを維持することと親からの愛を失わないことの奇妙な妥協の産物が作りだされる。

                
                 ○             ○


「キャリア・ウーマンになるのは憧れだけれど、男と伍して働くなんてよほどの知力と体力と精神力に恵まれた人の話。自分のレベルは、偏差値を通してよく知っているから、キャリア・ウーマンはパス」
「それにあれは結婚を捨てなきゃいけない。かと言って、ランクを落とした仕事と家庭とを両立するために頑張るなんてしんどすぎる。保育所で子どもが一人残されて自分を待っているなんて、可哀想すぎる。自分の子どもは愛情いっぱい注いで、自分の手で完璧な人間に育てたい。だから子どもは一人で十分だけど、一人っ子は可哀想だから二人にする」
「子どもの手が離れたら、自分を生かせる仕事をしてみたい。社会と繋がっていれば、いつまでも若さを保てるから。そんな生活が可能になるためには、やっぱり夫の収入が高くなくてはダメ。だから結婚相手に求めるのは、なんといっても経済力。貧乏な人はペケ」


 これが首都圏を中心に広まりつつある女子大生たちの新・専業主婦志向である。親や友人たちからOKサインをもらえるような結婚。労働義務からの解放。最低限の努力で最大限の評価が与えられる仕事への憧れ。
 若い男性は、今なお専業主婦を望んでいるので、妻の内実がなんであれ、家事と育児を妻がしてくれる限りは、文句は言わない。ここに、恋愛濃度の低い、安全な新しい結婚が成立する。

                
                ○                ○


 現在の女子大生たちはもの心ついた時から偏差値によって序列化され、それ以前の世代には想像もできない新種の優越感と劣等感を植えつけられて育ってきた。が、偏差値競争の勝者になって得るものは、親からの称賛以外には何もない。幸福な勝者モデルも見つけられない。となれば、ようやく大学に入学した時点で、競争とは縁を切りたいと思うのも当然だろう。
 就職するのにも競争があり、就職してからも競争があるとなれば、彼女たちが家庭に回帰していくのも不思議はない。


 さて、小倉氏が「女子学生は卒業したら働きたいと思うのが当然であり、「幸せな」結婚をしたいなどというのは親の願望に引きずられた「不正直な」心だという見方」を持っている、という林氏の見方は、小倉氏の文意を正確に読み取ったものと言えるでしょうか?

 khideakiさんは、林氏の著作に依拠してフェミニズム批判を展開されましたが、林氏が小倉氏の文章を全く正確に伝えていない(それが林氏の故意によるものなのか、それとも読解力の欠如によるものなのかはわかりませんが)という可能性について、お考えになるべきだったと思います。

こんなことを言いましたっけ?

 ところでguldeenさんといえば、murmurさんのブログのコメント欄に不思議な書き込みをされていたことに、最近気付きました。

http://blog.livedoor.jp/mumur/archives/29685996.html
あまり関係無い話ですが、「弟子が干し肉にされた事を知った孔子は、自分の好物である干し肉のストックを捨てた」という話を、この「人肉ギョウザ」とからめて紹介したところ、d.hatena.ne.jp/jimusiosaka/の人に『孔子が人肉を食べてた証拠はあるんですか?偏見や憶測だけで孔子の思想を否定するような事を言わないで下さい』と猛抗議されて、萎えました…。
まぁ今さら検証のしようも無いから真偽は不明だけど、べつに悪食でその人の説いた思想の価値が変わるとは、私は思えないんだがなぁ。クジラを食っていようが「猿の脳ミソ」「犬の肉」・はたまた人肉が好物だろうが、その人の仕事ぶりや活動を否定するものではないはずだし。
>>耳成 さん
私の店員時代でも、よくそこらへんの国のお客様がカードで高額商品をお買い上げになってましたけど、“なぜか”カード読取機にかけると「オペレータにお問合せ下さい」のエラーが出るのが普通でしたわ…orz
Posted by guldeen at August 06, 2005 12:57


 私が「『孔子が人肉を食べてた証拠はあるんですか?偏見や憶測だけで孔子の思想を否定するような事を言わないで下さい』と猛抗議」したというのは、http://d.hatena.ne.jp/guldeen/20041208#cのコメント欄における書き込みのこと(http://d.hatena.ne.jp/jimusiosaka/20050628/p1にも転載させて頂いています)のはずなのですが、さて私はこんなことを申しておりましたっけ?あるいは、誤解されそうな物言いだったのでしょうか?

Apemanさんと、愛・蔵太さんとの論争

Apemanさんと、愛・蔵太さんとの間で、再び論争が起こっています


Apemanさんの記事
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C2047678115/E20060614112848/index.html
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C2047678115/E20060615005846/index.html
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20060616012608/index.html
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C2047678115/E20060616094854/index.html


愛・蔵太さんの記事
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060614#p2
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060616#p1
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060618#p1
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060619#p1
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060619#p2
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060620#p1



 そして、愛・蔵太さんの二番目の記事において、以前私が愛・蔵太さんの記事(http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060307#p1)に対してブックマークでコメントしたことについて触れられています。

なお、別件ですが、ブックマークのコメントでこんなのもあったので。
はてなブックマーク - 愛・蔵太の気ままな日記 - ものすごく興奮して大漁の文章をアップロードしているいる人がいるみたいですが

2006年03月05日 jimusiosaka 「当人に対して接点を持たない第三者により、当人に確認を取らないまま伝えた情報が「正確」なわけが」ないとすると、例えば歴史家による歴史の叙述はほとんど不可能になるのではないでしょうか。

「不可能」ではないと思いますが「フィクション(創作・虚構・物語)として後世には読まれる可能性も考えて、歴史書というのは書かれてきたし、書く人もそれを意識して叙述してたのでは」というのがぼくの判断です。江戸時代の経済状況とか、史料的に充実しているものはともかく、「織田信長はこんな人」みたいな人物評は、客観的に判断できるようなものはほとんどないようなエピソードが多いわけで。


 歴史家は、史料によって得られた情報に基づいて歴史を叙述しますが、その史料が一次史料・二次史料のどちらであるにしても、歴史上の出来事の当事者や史料の提供者に対する確認を取ってからその史料を用いるということは、ほとんどありません(オーラル・ヒストリーなど少数の例外を除いて)。ですから、上記のように申し述べたわけです。
 しかし、これに対する愛・蔵太さんのお言葉は、どうも理解に苦しむものでした。
 まず、「「フィクション(創作・虚構・物語)として後世には読まれる可能性も考えて、歴史書というのは書かれてきたし、書く人もそれを意識して叙述してたのでは」というのがぼくの判断」とのことですが、少なくとも近代以降の歴史家にとって、自分の書いた歴史書が「「フィクション(創作・虚構・物語)として後世には読まれる可能性」があるなどということは最も考えたくないことだろうと思いますし、そのように読まれることがないよう叙述するのが普通の歴史家の基本的な態度だと思います。
 次に、「江戸時代の経済状況とか、史料的に充実しているものはともかく、「織田信長はこんな人」みたいな人物評は、客観的に判断できるようなものはほとんどないようなエピソードが多いわけで。」という部分は、愛・蔵太さんの意図されているところが全くわかりません。一体何をおっしゃりたいのでしょうか?
また、ここで書かれている内容自体についても、「江戸時代の経済状況とか、史料的に充実しているもの」とおっしゃるところについては、私は江戸時代の経済史は全くの門外漢ではありますが、他の時代に比べて「史料的に充実」しているのだろうかと疑問を感じるところですし、「「織田信長はこんな人」みたいな人物評は、客観的に判断できるようなものはほとんどないようなエピソードが多いわけで。」とおっしゃるところについては、「「織田信長はこんな人」みたいな人物評」というのは歴史家による人物評のことなのか、それとも同時代人による人物評のことなのか、どうも判然としないように思われます。


 それにしても、愛・蔵太さんの最初の記事のコメント欄において、愛・蔵太さんはguldeenさんの書き込みに対して非常に理性的な応答をされているように思われたのですが、Apemanさんに対してはどうしてあのような応答をされるのか、不思議に思います。


(7月3日追記)
野良猫さんが、以下のブログのコメント欄で、この記事へのリンクを張っておられます。

http://adon-k.seesaa.net/article/18421170.html#comment

 一応の期限に向けて、手ぐすね引いて待機中……とかやっていたら、こんなURLを発見。

http://d.hatena.ne.jp/jimusiosaka/20060617
#c1151251272

 ぺたっ。
 傷をなめあう道化芝居〜♪ こんな歌詞をなんとなく思い出したけど「イデオン」だったかな〜。
 しばしば離れた場所で見せるこういうやりとりが「グループ」と呼びたくなる所以だったりします(-_+)キラリ。
 
Posted by 野良猫 at 2006年06月30日 22:24


 野良猫さんの目には、なぜか「傷をなめあう道化芝居」と見えるらしいです。はて?
 このエントリの主旨は、愛・蔵太さんが私のコメントに対して述べられたことについて論じるということであって、Apemanさんと愛・蔵太さんとの論争については論じていないのですが(最後に、私自身はApemanさんの方に理があると考えていることは述べておりますが)。
 そしてその後、野良猫さんは以下のように発言されています。

 サヨクと議論になる場合、大概は1対複数となります。これは昔の「異議あり」や「サンデープロジェクト」で観られる構図と同じです。そして、こちら側が論点のポイントについて指摘をするのに対して、サヨク側は「あなたはデタラメな人間である。だから他の皆さんもこんなデタラメな説を聞いてはダメですよ」という主張によって意見を封じ込めようとしてくるのが、面倒なところでもある。

 普通、リベラル(自称を問わず)というのは開放的な意味があるのですが、そのやり方は古い「農耕定住ムラ社会」そのものだったりするのが面白い。
 議論の進展にしても──、

「Aという史料があります。だから南京大虐殺はありました」
「その史料には信憑性に問題があります。この内容は中間派やまぼろし派は否定していますよ。あなたは何の説を信じているんですか?」
「……Bという史料があります。だから虐殺があったことには違いないのです」
「いえ、具体的にはあなたはどういうイメージを持っているのかと……」
「……Cという史料があります。こんなに確実なのに否定派はなんて愚かなのか」
「だから史料の引用オンリーは結構なので、それらを元にあなた自身はどういう見解を出したのかと……」

 すると、最初の相手は沈黙して別の人間が割って入ってくる。

「そんな事より、否定派が日中友好に与える悪影響についてどうお考えですか?」

 そして、その人間が沈黙すると元の相手が戻ってきて何事も無かったかのように話を進めようとする。

「さて、今までの史料をご覧になれば虐殺は確実かとお分かりでしょうが……☆」

 こんな感じで以下、無限ループ。

 ちなみに、こういう進展の間では捨てハンによるヤジや肯定派への賛美が書かれる(しかし、その時と同じハンドルを別所で見かけるケースは少ない)。
 こういうやり方は、言ってみれば「ゲリラ戦」みたいなもので、形勢不利となった者は素早く隠れて「敵」に隙が出来るかほとぼりが冷めるのをじっくりと待つ。また、じっくりと待つ余裕を与えないように、絶えず複数の人間と会話の続く状況を続ける。
 そして、何かしら言質がとれた時(敵に隙を見いだした時)は全員で一点突破をはかる……。

 こういうやり方を、僕は「サヨク人海戦術ドクトリン」と呼んでいたんですが、考えてみれば旧共産圏の軍隊とやってる事は変わらない訳ですね(苦笑)。毛沢東が持久戦論で述べていたのもこんな感じだったような気がします。
 ここの議論に際しても、似たようなパターンがいくつか見受けられるのではないでしょうか。

 彼らは「形勢不利」と思えば、自らの陣地に籠城するか姿を消します。議論が再開されるとしても、彼ら自身が「形勢有利」と感じる時まで待たねばならないでしょう。
 なお、不思議なことではありますが、そういう時期は見慣れないハンドルで妙に「事情通」な方が、別の話題で非難などを始めるケースも見かけます。
 元のメンバーを呼び戻す「呼び水」として、そうした方と議論を続けるという手もあります。

 長々となりましたが、これが自分なりに分析した「行動パターン」です。
Posted by 野良猫 at 2006年07月03日 21:52


 野良猫さんは拙ブログのコメント欄に何度か書き込まれて論争になりましたし、また他のブログでも論争されているのをお見かけしたりしておりますが、野良猫さんがおっしゃるようなサヨクの「行動パターン」は見た記憶がありません。是非とも、そのようなサヨクの「行動パターン」が見られる野良猫さんとサヨクとの論争を、URLつきで例示して頂きたいものです。